そこは去らなければならない楽園だった

ジョージ・ウェインとアルバート・グロスマンが考え出して実現させたニューポート・ジャズ・フェスティヴァルは一九五四年から始まった。裕福な人たちが夏を過ごす避暑地でジャズをライヴで提供する、という試みは成功した。このジャズ・フェスティヴァルから派生して一九五九年に始まったのが、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルだ。ポピュラー・ソングのひとつの形態として、あるいはそうではないものでも、フォーク・ソングの流行は、一九五〇年代のなかばにはすでに始まっていた。

ポピュラー・ソングではないフォーク・ソングは、ただ単に文化的なものであるだけではなく、始まったときからポリティカルなものだった。フォーク・ソングはそもそもポリティカルなものだった、という言いかたをしたほうがいいかもしれない。みんなでいっしょに歌い、そのことをとおして連帯感をつちかい、人々の気持ちがひとつの社会的な力のようになると、その力は社会のありかたを正しい方向へ持っていく、という夢が前方にあった。ごく普通の人たちの気持ちを、フォーク・ソングはひとつにまとめる表現力となった。伝統的な歌の歌詞を変更して歌うと、人々の気持ちは過去とつながると同時に、その過去は現在に生きることにもなった。フォーク・ソングは、したがって、トピカルな歌だった。トピカルな歌は、現在のシステムを批判すると同時に、未来における理想を描く力も発揮した。

一九六三年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルに登場したとき、ボブ・ディランはすでにフォーク・ソングの世界の新しいスターだった。七月二十六、二十七、二十八、金、土、日の三日間、社会正義をより多くの聴衆に向けて発する人として、もっとも期待されていたのがボブ・ディランだ。このときすでに彼は完璧と言っていい状態にまで出来上がっていた。先行者たちのすべてを彼は大きく抜いていた。あの髪、顔立ち、表情、声、喋りかた、歌いかた、ステージでの動き、短い語りなど、あらゆる点において、フォーク・ソングに興味のある人たちにとっての政治的な関心事が、ディランから強力に発散され、それは彼らに届いてもいた。彼が自作の歌を歌えば、その歌詞は予言的だと評された。予言的とは、前方のどこかへ向けて進んでいく力、と解釈しておくといい。

七月二十六日午後の、誰もが気楽に接することの出来るワークショップで、ディランはドク・ワトスンやクラレンス・アシュレイ、ジュディ・コリンズたちと舞台を共にし、すでにスターだったジョーン・バエズとは、With God On Our Sideをデュエットした。この歌をふたりは、夜のステージでもデュエットで歌った。おなじ舞台でBlowin’ In The Windを彼が歌ったときには、ザ・フリーダム・シンガーズとピーター、ポール・アンド・メアリーそしてジョーン・バエズが一緒だった。この歌は多くのさまざまな歌手によってカヴァーされている。この時代のアメリカのヒット曲をマレーネ・デートリッヒがドイツ語で歌ったLPのなかにも、Blowin’ In The Windがある。

一九六三年、六四年、六五年と三度にわたってこのフェスティヴァルに出演して歌ったディランを、撮影角度が変わることのない、カメラのほとんど動かないままの、そして説明や解説などのヴォイス・オーヴァーなどいっさいない、動画の映像で見ることが出来る。いちばん最初にあらわれるディランは、一九六五年七月二十四日午後のワークショップでの、All I Really Want To Doを歌う彼だ。この画像だけが時間順ではなく、ここからあとはほぼクロノロジカルな配列だ。

歌うディランと彼を受けとめる観客を、十七曲にわたって、再生したDVDの画面で観ることが出来る。観ていると次第にわかってくることがある。彼の歌はどれも長いけれど、その長さはストーリーを語るための長さではない、ということだ。歌詞はひと言で表現して予言的ではあるけれど、聴いている人たちは笑わない。ザ・キングストン・トリオによる『物のかたちのバラッド』のように、客を笑わせる歌ではない。必ずしも平明ではない歌詞を歌として受けとめながら、それを歌うボブ・ディランその人を見ている人たちがおこなうのは、それぞれにイメージを描いていくことだ。イメージには出来ばえの差があって当然だが、ディランの歌う歌詞が発端になっていることは明らかであり、聴衆のひとりひとりにとって、自分で自分のなかに作ったイメージがある程度以上にまとまるなら、その人にとってディランの歌はcame acrossした、ということになるのではないか。

一九六五年のフィルムは、七月二十四日午後のワークショップで歌った二曲のあと、ステージ上でのリハーサルの場面となる。ポール・バタフィールドのいないザ・ポール・バタフィールド・ブルース・バンドにディランが電気ギターで加わり、マイク・ブルームフィールドとおたがいに気持ち良さそうに反応し合ってギターを弾いている。このマイク・ブルームフィールドのエレクトリック・ギターの音を聴いた瞬間、監督のマレイ・ラーナーは、それだよ! と叫んで思わずステージに駆け上がったという。

「マイク・ブルームフィールドのような電気ギターの音は、それを受けとめる人の体にくるんですよ」と、ラーナーはインタヴューで語っている。体にくる、としか言いようがないのだろう。アクースティック・ギターの演奏については、さまざまな言説が可能だ。ブルームフィールドほどの電気ギターだと、奏者としての演奏を続けながら、これなんだよ、これ、とでも言うほかなく、受けとめるほうとしては、「これ」が「体にくる」のを全面的に許容するほかない。電気ギターによるブルームフィールドのブルース奏法を常に越えているのは、自分の電気ギターにおける、電気の使いかただ。

このごく短いリハーサル風景は、二十五日の夜のステージを充分に予感させる。このバンドとともにディランは、Maggie’s FarmとLike A Rolling Stoneの二曲を、自らも電気ギターで演奏し歌う。このあと、ディランはアクースティック・ギターに持ち替え、Mr. Tambourine ManとIt’s All Over Now, Baby Blueの二曲を歌ってステージはそこで終わる。アクースティック・ギターに持ち替えて歌う前に、Eのハーモニカを持っている人はいませんか、いたら貸してください、と客に呼びかける。自分のハーモニカが見当たらないからだ。Eのハーモニカはステージにすぐに届き、礼を言いながらディランはそれをホルダーに固定し、やがて歌い始める。
『ボブ・ディラン ニューポート・フォーク・フェスティヴァル ’63-’65』というCDが存在していて、そのCDの十八曲目が、E-Harmonica となっている。Eのハーモニカを持っている人がいたら貸してください、とボブ・ディランが観客に言い、一本のハーモニカが「投げ込まれた」と、ライナーにある。

ディランはそのハーモニカを吹いてみた。Eだということは、吹いてみればすぐにわかる。ディランはカポタストの位置を変え、Mr. Tambourine ManをEのキーで歌った。この曲を譜面で見るとキーはFだ。その次の歌が一九六五年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルでの最後の歌になった、It’s All Over Now, Baby Blueだ。

ディランがエレクトリックになったことに対して、このときの観客からたいへんなブーイングを受けた、としばしば語られている。賛意の喝采。意味のない歓声。ブーイング。この三種類がほぼ均等に重なっていた、とマレイ・ラーナーは言っている。彼がエレクトリックになったことに対して大きなブーイングを受けた、という伝説に、解釈の余地はある。電気が持っている力ゆえの、エレクトリックになって当然だという考えの、誇張された表現としてのブーイングだ、という解釈だ。

The Other Side Of The MirrorというDVDについているブックレットに次のような引用がある。ディランが自分で書いた自伝である、Chronicles Vol.1からの、次のような引用だ。

The fork music scene had been like a paradise that I had to leave, like Adam that had to leave the garden. It was just perfect.

一九五〇年代のなかばには出来始めていたフォーク・ソングの世界は、一九六一年の一月にディランがニューヨークに出て来たときには、すでに完成していた。完成していたとは、それ以上の展開の可能性はもはやどこにもなかったということであり、あったのは思いのほか早くに下降していく時間だけだった。完璧に出来上がっていたニューヨークのフォーク・ソングの世界は、他の場所から来てそこに加わったディランにとって、確かにエデンの園にたとえることの出来た楽園だったろう。そこは楽園だった、と書いたディラン自身、フォーク・ソングの歌手と呼ばれて、すでに完成の域に達していた。最初のLP、続く二枚目のLPを見たり聴いたりするだけでも、そのことは一目瞭然だ。フォーク・ソングの歌い手として、これ以上は望めないという完成の地点に、ディランはすでに到達していた。

一九六五年の夏に向けて、自分で考えて結論を出すための時間は、ディランには充分にあった。フォーク・ソングの歌手として人々からとらえられるのは当然だとしても、自分はそうではないし、ましてやプロテスト・ソングの歌い手ではないのだと、彼は何度も言っていた。自分の歌にメッセージはない、とも言った。歌詞にメッセージがなければ、その歌がプロテスト・ソングであるわけがなく、予言的でもなければトピカルですらない。

歌うディランをとらえたこの映画では、すでに書いたとおり、基本的に撮影カメラはまったく動かない。歌う彼が画面にいるときは、彼とその歌を受けとめるほかない。ひとつの歌が長く続く。歌詞が長いからだ。聴いている人たちは、じっと聴いていなくてはいけない。その様子が存分にフィルムにとらえてある。

聴くしかない人たちに、ディランは聴かせている。そのことに向けて、ディランは力を発揮している。その力は半端ではない。彼はなにを聴かせているのか。あの歌いかたと声がメロディを現出させ、伴奏のアクースティック・ギターがそれに重なる。歌われるのは歌詞だ。自分の歌にメッセージはない、と当人が言っている。しかしフェスティヴァルの夏の観客は、聴いている。受けとめている。ディランの歌の歌詞、つまり詩を。ディランの言葉を彼らは音声として受けとめ、頭のなかで次々に追っている。

受けとめるディランの言葉をきっかけのように使って、足がかりのようにして、誰もがそれぞれに、ほぼ自動的に、イメージを作っていく。歌うディランの歌詞の言葉に触発されて、聴いている人たちの頭のなかに、ディランによって歌われた歌詞に添いながらも、それとは別にもうひとつ、イメージが作られていく。自分のなかに出来ていくこのイメージに、ある程度以上の手応えがあった場合には、ディランの歌は充分に自分に届いた、ということになるのだろう。すでに書いたとおりだ。

ニューヨークにあったフォーク・ソングの世界が完璧な楽園だったとは、アクースティック・ギターに代表されるフォーク・ソングの世界ぜんたいに関して、当時のディランはすでに、明らかな限界を見ていた、と僕は解釈している。フォーク・ソングの世界のすべてが、完成されたスタイルだった。完成されたスタイルの内部ではなく、その外側にある不定型さのなかにい続けたいと願うなら、フォーク・ソングの世界からは去るほかない。アクースティック・ギターによる届きかたや力に対して不足を感じ始めていたなら、ギターはエレクトリックになる他ない。

BOB DYLAN NO DIRECTION HOME THE SOUNDTRACKというCDがある。ザ・ブートレッグ・シリーズの第七集として市販されている。このCDの一曲目はWhen I Got Troublesという歌で、ボブ・ディランが歌うのを高校の級友のリック・カンガスという人が、ホーム・レコーディングしたものだという。一九五九年のことで、ボブ・ディラン自作の歌が録音されたのは、この録音が最初だそうだ。

二曲目もホーム・レコーディングだ。一九六〇年八月、クリーヴ・ペタスンという人がクリーヴランドのラジオ・シャックでテープ・レコーダーを購入し、さっそく地元のフォーク歌手や歌う仲間たちの歌を十二曲、録音した。そのなかのひとりが当時のボブ・ディランで、彼はWagoner’s Ladという以前から伝わる歌の歌詞を変えて歌っている。そのときの題名はRambler, Gamblerだった。

ボブ・ディランの歌がどの方向を目ざしていたか、この二曲を聴くだけでもよくわかる。さらに三曲目と四曲目を聴くと、そうか、こうだったのか、と思う。三曲目はThis Land Is Your Landで、録音された場所は、あのカーネギー・ホールの隣にある、チャプター・ホールという小さなホールだ。四曲目はSong To Woodyで、これはディランの最初のLPからだ。書かずにはいられなかったから書いた歌だ、とディラン自身が言っている。

一九五八年以前のホーム・レコーディングが見つからないものか、と僕は思っている。もしそんなものがあったなら、そこに録音されている歌が、僕の好きな冗談として、リトル・リチャードのSlippin’ And Slidin’だとじつに喜ばしい。彼はロックンロールの影響を受けてリトル・リチャードになりたかった人でしょう、その歌はかならずや何度も歌ってるはずですよ、と友人のひとりは言う。一九六九年四月、サンフランシスコのウィンターランドで、ザ・バンドのデビュー公演が開催された。アンコールに応えてザ・バンドが演奏したのはSlippin’And Slidin’だった。

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