それは白黒シネマスコープの西部劇だった

一九五六年に二十世紀フォックスが製作して公開したLove Me Tenderという映画は、白黒シネマスコープの西部劇だった。題名に続くクレディットの画面では、リチャード・イーガンとデブラ・パジェットの下に、アンド・イントロデューシング、というきまり文つきで、エルヴィス・プレスリーの名があった。

レナード・マーティンは『クラシック・ムーヴィ・ガイド』のなかでこの西部劇を、so-so Westernと評している。まあまあの西部劇、というような意味だ。当時のハリウッドでの、映画の撮影現場の人たちにとっては、このような西部劇を作るのは難しくもなんともない、ルーティーンそのものだった。この程度の出来ばえの西部劇を子供の頃にいくつ観たかわからない、という意味において、この西部劇はよく出来ている。

一八六五年四月十日、という日付が冒頭の画面に重なる。南北戦争が終わった日だ。この日、戦争が終わったばかりとは知らない男たちが、汽車で運ばれていた北軍の現金を強奪する。戦争がまだおこなわれているあいだなら、知恵を働かせて勇敢にことにあたった男たち、として称賛されるはずだが、戦争は終わったばかりだった。だから男たちは、一万二千二百五十ドルという額の現金を奪った盗賊であり、北軍は彼らをどこへ逃げようとも徹底的に追いつめる構えだ。

兄弟三人を含む彼ら男たちは、兄弟たちの家へひとまずたどり着く。戦争のあいだ四年も留守にしていた家だ。ここで兄弟のいちばん下、四人目の青年であるクリント・リーノを演じるエルヴィス・プレスリーが、We’re Gonna Moveという歌を歌う。この場面はじつによく出来ている。南部の農家のポーチだ。夕食のあと、寝るまでの時間、という設定だろう。歌うエルヴィスにとって、そのポーチは小さいけれどもステージだ。右側のドアの脇に母親役のミルドレッド・ダノックが椅子にすわっている。反対側にはデブラ・パジェットが、ふたりがけの籐椅子のようなものにひとりですわっている。いちばんの兄であるリチャード・イーガンはポーチへの階段にすわり、ポーチで歌う末弟のエルヴィスを見上げている。ウイリアム・キャンベルともうひとりの弟、ジェイムス・デューリーは、歌うエルヴィスに合わせて動き、ときたま合いの手を入れる。

エルヴィスが歌う場面はもうひとつある。学校を作る資金をつのるため、広場のようなところでフェアが開かれる。木材を組んで作ったステージが作ってあり、アコーディオン、ドラムス、バンジョー、そしてギターの四人がすぐうしろにいるなかで、エルヴィスはPoor BoyとLet Meの二曲を歌う。この場面、そして彼が歌う二曲は、映画の展開によく合っていることを越えて、歌として素晴らしい。

撮影監督はリーオ・トーヴァーという人だった。エルヴィス・プレスリーの歌いかたや動きかたを、冷静に観察したのちに、こう撮る、ときめてそのとおりに彼が撮った画面を、この映画のなかに見ることが出来る。先ほどのポーチで歌う場面で聞こえるバックアップ・ハーモニーは、ザ・ジョーダネアーズによるものではないか。ときどき聞こえるような細工がしてある、と僕は判断している。資金集めの現場でのエルヴィスに関しては、「弟の歌は以前から評判だったからなあ」と、リーノ兄弟の誰かが、画面外のような位置で、補完している。おなじステージにいる四人の楽士たちについては、ミュージシャンとして彼らは演奏しているわけではなく、役者がそれらしく演じているだけだろう、と僕は思っている。
『キネマ旬報』のRock Star in the Movieという特集に、かつて僕は「一九五七年のラヴ・ミー・テンダー」と題した文章を書いた。このなかで僕が次のように書いた部分がある。「フェアの会場に作られた木製のステージで彼が歌う場面では、当時の彼がステージ活動を常にともにしていた三人のミュージシャンたちが、そのまま出演している」。この記述は、僕によくあるまったくの記憶ちがいにもとづいて書かれたもので、正しくはこの本にいま書いたとおりだ。おなじことを書いているからという理由で、こうして書いておく。

エルヴィス・プレスリーが演じている、クリント・リーノという四人兄弟の末っこは、単純な性格の直情的な青年、という設定だ。直情的な人が激情にかられている様子は、演技の経験のない人には、演じやすい。スクリーン・テストですでに彼は合格している。その彼にあたえられた最初の役は、演じやすいキャラクターだった。そのとおりの演技を、画面に見ることが出来る。

資金集めのフェアに一家で出かける直前、家のなかでの、陽気にはしゃいですでに有頂天、という彼の様子はなかなか好ましい。彼は新しい服を着ている。兄たち三人が協力者の男たちを得て北軍から強奪した現金で、いちばん上の兄が買ったものだ。雑貨店に入って買い物をしたとき、南軍の通貨の受け取りをしぶる店主に、これならいいだろう、と強奪したばかりの北軍の現金から、紙幣を一枚、抜き取って店主に渡す。久しぶりに見るなあ、と店主は感激する。この一枚の紙幣から、足がつく、という事態へと、よく出来た西部劇は展開していく。

最後の場面は、まだ新しく真っ白い墓石の下に眠るクリント・リーノに、一家が別れを告げる場面だ。誰もがどこかに、黒い色を身につけている。この映画のなかで使われた四曲の歌のうち、映画の公開よりも先にシングル盤として発売されたLove Me Tenderはたいへんな売れ行きとなった。『リーノ兄弟』という題名で公開されることになっていたが、Love Me Tenderへと変更された。題名の変更だけでは済まないのではないか、と考えた製作者たちは、映画のいちばん終わりに、Love Me Tenderという歌の、この映画にとっての主題となる部分をエルヴィスに歌わせて撮影したフィルムを加えた。伴奏は映画のなかで使用されたものとは異なり、オーケストラだ。

Love Me Tenderの撮影は八月二十二日から始まったという。このときすでに、映画の題名は、The Reno BrothersからLove Me Tenderに変更されていた、という説がある。九月の初旬に撮影は完了した。かかった費用は合計で百万ドルいかなかったそうだ。見事な低予算の西部劇だ。

少なくとも自分が出演する部分の撮影は終わったエルヴィス・プレスリーは、九月九日にエド・サリヴァン・ショーに初出演した。このとき、近く公開される映画の主題歌です、と言って、Love Me Tenderを歌った。レコード会社のRCAは大量の注文を受けることとなり、十月の第一週にこの歌のシングル盤を発売した。十月二十日にビルボードのチャートで二位、そして十一月三日のチャートでは一位だった。どちらの場合にも、Don’t Be CruelとHound Dogが、一位あるいは二位にいた。そして映画は十一月十六日からまずニューヨークで公開された。

映画のなかでエルヴィスによって歌われた四曲の歌は、撮影が始まった頃にはすでに出来ていたようだ。四曲とも、作詩作曲はケン・ダービィだった。レコード用の録音は八月の下旬から九月の上旬にかけて、二十世紀フォックスのサウンド・ステージを利用したスタジオで録音された。田舎ふうの音にはしたくないという理由で、それまでエルヴィスに演奏を提供してきたスコティ・ムーア、ビル・ブラック、D・J・フォンタナの三人のミュージシャンは使わず、自分のトリオであったケン・ダービィ・トリオが演奏にあたった。一九四二年にビング・クロスビーが歌った『ホワイト・クリスマス』という歌で、バッキング・コーラスをつけたのがケン・ダービィ合唱団だ。ヴォーカル・スーパヴィジョンという肩書で、クレディットにケン・ダービィの名がある。クレディットに名前があるといえばもうひとり、トム・パーカーの名が、テクニカル・アドヴァイザーとして、クレディットにある。映画ぜんたいの音楽監督を務めたのはライオネル・ニューマンだった。

Let MeにWe’re Gonna MoveそしてPoor Boyの三曲はよく出来ている。この映画のなかでエルヴィスが歌う、という前提のもとに、短い時間のなかで、ケン・ダービィが作った。Love Me Tenderの原曲は一八六一年に作られたAura Leeという歌だ。誰がどう使ってもいい曲であり、日本の業界では、トラディショナル、と呼ばれている。四曲ともエルヴィス・プレスリーとヴェラ・マトスンのふたりの名義になっているが、ヴェラ・マトスンという名前はケン・ダービィの当時の奥さんの旧姓だということだ。

エルヴィスがハリウッドへ来てスクリーン・テストを受けたときには、バート・ランカスターとキャサリン・ヘップバーンのThe Rainmakerの製作が進行中だった。The Rainmakerのスクリプトをあたえられたエルヴィスは、フランク・フェイレンという性格俳優を相手に、スクリーン・テストのための演技を提供した。エルヴィスはThe Rainmakerでデビューするはずだったのだがトム・パーカーやハル・ウォリスが反対したから実現しなかった、という説がある。エルヴィス・プレスリーが俳優として契約したのはパラマウントであり、デビュー作のためには、二十世紀フォックスに貸し出される、というかたちをとったそうだ。

映画Love Me Tenderの中でエルヴィス・プレスリーが歌ったのは四曲だった。だとしたらその四曲は、少なくともEP盤でレコードになったはずだ、と僕は思った。EP盤とはExtended Play盤のことで、シングル盤とおなじ直径だが、片面に二曲収録することが出来た。インタネット経由でアメリカで探し、見つけたらそこに注文するほかない。友人の篠原恒木さんがすべてを引き受けた。ここからあとに登場する音源は、すべて彼がアメリカその他で手に入れたものだ。

EPA-4006でSIDE 1はLove Me TenderとLet Me 、そしてSIDE 2は、Poor BoyとWe’re Gonna Moveの、それぞれ二曲だった。マーキュリー・レコードのおそらくシングル盤の紙袋に入っていたが、新品同様の状態で、僕としてはひとまずこれで充分だった。

そうはいかないのは篠原さんだった。彼が注文したこのEP盤は、相手のサイトにはピクチャー・スリーヴ入りで掲載されていた。ボール紙によるジャケットで、使ってあった写真は、映画Love Me Tenderの撮影中に、フォト・セッションで撮影されたものだ。宣伝用に撮影された写真かもしれない。映画の冒頭に登場するときの、農夫の服装をした彼が、木製の柵になかば寄りかかって左肩ごしに振り返っている写真だ。このピクチャー・スリーヴ入りでEPが手に入る、と自分は思っていたのに、届いたのはあなたが言うところのジェネリックな紙スリーヴ入りだったから、ぜひともピクチャー・スリーヴを送ってほしい、と篠原さんはリクエストした。

四曲入りのEP盤を手に入れた満足感がおそらく影響していると思うが、Poor BoyとWe’re Gonna Moveの二曲は、どちらも、LPをターンテーブルに置いて再生した自分が、記憶のなかに蘇ってきた。やがて判明したのは、Poor BoyはFor LP Fans OnlyというLPに、そしてWe’re Gonna MoveはA Date With ElvisというLPに、それぞれ収録されている、という事実だった。このLPは二枚とも持っている。しかし、あのあたりにあるはず、としか言えないところに収納されていて、取り出すには相当な労力を必要とするはずだ、というのが現状だ。見開き紙ジャケット仕様のA Date With ElvisのCDを篠原さんはアメリカから手に入れた。For LP Fans OnlyのCDは後日の課題として、Let Meはどこにも見つからなかった。篠原さんもおなじ意見だ。「Let MeはまったくCDになっていず、唯一、The Complete ʻ56 SessionsというCDに収録されているだけです」と彼は言っている。

The Complete ʻ56 Sessionsは、クローム・ドリームズという英国の会社が製作した、十六ページのブックレットつきのCDだ。2008年に発売された。僕は知らなかった。一九五六年にエルヴィス・プレスリーが録音したものすべてが収録されている。映画Love Me Tenderの四曲はもちろん収録してある。We’re Gonna Moveはふたとおりあり、ひとつはムーヴィ・ヴァージョンだという。

一九九七年にBMGエンタテインメントが日本で発売したCDに、Jailhouse RockとLove Me Tenderの、AN ORIGINAL SOUNDTRACK RECORDINGというCDがある。ここにはPoor BoyとLet Me 、そしてWe’re Gonna Moveの三曲が、それぞれふたとおりずつ、収録してある。Let MeのうちのひとつはSoloと注釈がついていて、エルヴィスの歌だけだ。

メンフィス・レコーディング・サーヴィスが二〇一九年に二枚組のLPを作った。Elvis THE COMPLETE ʻ50’s MOVIE MASTERS AND ALTERNATE RECORDINGSという題名だ。LPは180グラムで二十三ページのブックレットがついている。ブックレットの裏表紙をジャケットに貼りつけたから、二十三ページだ。題名のとおり、エルヴィス・プレスリーが一九五〇年代に主演して歌った四つの映画の、歌が収録してある。映画Love Me Tenderからは、Let Meのテイク3と、We’re Gonna Moveのテイク4を聴くことが出来る。さきほど挙げたBMGのCDでは、We’re Gonna Moveのテイク9を聴くことが出来た。

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