日本橋からほど近い竈河岸の裏店で、小夏は三味線職人の父と二人暮らしだ。父の弟弟子の善次郎は、母のいない小夏を気遣いながら、一張の三味線を造り上げることを夢見て修業に励んでいた。ふたりは力を合わせ、世にひとつしかない三味線を造り上げようとするが、さまざまな困難が襲う。才能に溢れる若き男女が、己を信じて夢に向かい進む先に待つものとは。
日本橋からほど近い竈河岸の裏店で、小夏は三味線職人の父と二人暮らしだ。父の弟弟子の善次郎は、母のいない小夏を気遣いながら、一張の三味線を造り上げることを夢見て修業に励んでいた。ふたりは力を合わせ、世にひとつしかない三味線を造り上げようとするが、さまざまな困難が襲う。才能に溢れる若き男女が、己を信じて夢に向かい進む先に待つものとは。
三味線の基は中国元朝(一二七一~一三六七)の頃に遡るといわれる。
それが琉球に伝わって「三線」と呼ばれるようになった。胴に錦蛇の皮を張ったことから蛇皮線とも称された。これが本土に伝えられたのは、室町末期、十六世紀なかばといわれる。
この異国生まれの楽器に最初に関心を寄せたのは琵琶法師だという。琉球のつま弾く演奏法とは異なり、三線を膝に斜めに立て、撥で弾いた。
蛇の皮は弱く、破れやすい。ために厚くて丈夫な皮(猫皮や犬皮)にとって変わった。
江戸時代には、現在の三味線の形が完成したと言われる。
三味線造りには六十数通りもの工程があり、もちろんすべてが手作業。木材から各パーツを切り出す木取りに始まり、それらを組み合わせ、皮や弦を張る。少しでも具合がずれれば、音が変化してしまう繊細な作業はまさに超絶技巧の職人技。
主人公の善次郎は、新しい余韻を醸し出す三味線を造ろうと奮闘するが、果たして――?
主人公の小夏が住んでいるのは、竈河岸と呼ばれる、浜町堀入堀に面した片側町の裏店だ。現在の地名で言うと、日本橋人形町。現在、この入堀は埋め立てられているが、明治のころまで、人形町駅からすぐ近くに存在していた。竈を作る職人が多く住んでいたことから、「竈河岸」の名が付けられたといわれる。
竈河岸のある浜町堀入堀は、かつての元吉原遊廓の曲輪跡とも記録がある。近隣に現在も残る「末広神社」は元吉原の総鎮守だったと言われている。小夏らが住んでいた頃にはすでに吉原は浅草に移っていたが、少し歩けば日本橋、魚河岸でにぎわうエリアであり、芝居町も近い。
小三郎親方が店を構える玄冶店には役者や芝居の関係者が多く住んでいたというし、芸者や歌舞伎役者、三味線のお師匠のような面々が出入りする町は、粋で華やかな雰囲気があったことだろう。
作中に登場する、クロが住む稲荷社は、江戸時代の切絵図にも登場するが、現存しているかどうかは不明。現在も近辺には小さな稲荷社がたくさんある。町を歩けば、もしかしたらクロの子孫、代々の「稲荷猫」がまだ住んでいたりするかも!?