安政二年十月、大地震発生の報を受け江戸に駆けつけた若き侍がいた。 信州伊那の旗本座光寺家の家臣・本宮藤之助だ。 藤之助は江戸屋敷で、地震の夜に当主・左京為清が失踪したことを告げられる。 探索を命じられ、そこから思いがけぬ宿命に導かれていく――。 伊那の大地を胸に抱く藤之助が、江戸を、やがて世界を、大きく動かしてゆく。
著者:佐伯泰英
発売:光文社
発売日:2025年06月11日(水)
※一部地域では発売日が異なります
定価:880円(税込み)
ISBN:978-4-334-10689-8
判型:文庫判ソフト
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交代寄合衆座光寺家の下士。
21歳。信濃一傳流の遣い手。
その人間離れした身体能力から、「山猿」「天狗」と呼ばれることも。安政の大地震の報に接し、伊那谷から江戸に駆け付ける。座光寺家当主。
光家肝煎・品川家より養子に入る。
江戸育ちで田舎嫌い、いまだ国元に帰ったことがない。座光寺家江戸屋敷に奉公する奥女中。
麹町の武具商・甲斐屋助八の娘。座光寺家陣屋家老。
藤之助の剣の師匠でもある。
徳川家より座光寺家に極秘に下された大事な「役目」を藤之助に告げる。
禄高が1万石以上の大名は、全国に領地を持ち、参勤交代が義務付けられていることをご存じの方は多いだろう。しかし交代寄合は、大名ではない旗本身分であるのに領地を安堵され、参勤交代を強いられる旗本家であり、三十四家ほど存在した。 禄高が少ないにもかかわらず、莫大な費用の掛かる参勤交代も義務であり、武士の体面も保たねばならない。藤之助が仕える座光寺家も例に漏れず、逼迫した経済状況にある。 しかしながらどうも座光寺家の先祖は、大坂夏の陣に出兵した際、のちの将軍家康との間に、ある密約を結んだのだという。 藤之助はその密約、そして秘められた使命を知り、ある決意を固めるのであった――。 (※物語の設定にはフィクションが含まれます)
現在の長野県南部、天竜川の流れによって形成された盆地である。座光寺家は将軍家康から領地を安堵された伊那谷に陣屋を構えている。
現在でいう南アルプスを望む風光明媚な土地で、藤之助はこの地で、「信濃一傳流」を独創した剣技「天竜暴れ水」を編み出した。
本文から伊那谷の描写を抜き出してみよう。
「諏訪の湖から流れ出た天竜川が北から南に流れ、西に木曾の山並みを控え、東には伊那山脈、さらにはその背後に一万尺(約三千メートル)に近い中白根山や赤石岳の高峰を望む伊那谷に山吹領はあった。赤石山嶺には夏場を除いて白い雪が積もっていた。」
藤之助は気宇壮大に相手を吞むために構えは天竜にも中白根山にも負けぬように大きく取り、河原で修行を積み重ねることで、天狗とも山猿とも称される稀代の剣の遣い手となったのだ。

(『変化』「あとがき」より転載)
本作品、『変化』は二〇〇五年七月十五日に、講談社から文庫版として出版されている。およそ二十年前だ。
私が現代ものに行き詰まりを感じて文庫版時代小説に手を染めたのは一九九〇年代初頭だ。現代ものが売れないからといって時代小説に転向して日の目を見るなんてことはまずありえない。それでも思い付きを選択するしか私には策はなかった。
それまで手当たり次第に観賞してきた時代劇映画や読み散らした時代小説を思い出しながら、何冊か文庫版で時代小説を書き下ろしたのだ。だか、売れない事実に変わりはない。ともあれ、わたしにとって時代小説を書くきっかけというか、参考となった時代劇映画のひとつに二川文太郎監督作品の『雄呂血』がある。
私の生まれ育った時代、ただ今のように娯楽は豊かではなく、お手軽(?)に作られる紙芝居に始まって、戦前に製作された白黒映画の時代劇くらいしかなかった。白黒映画といっても、戦火に運よく焼け残ったフィルムが小学校の校庭などで上映されるのである。むろんかようなフィルムは繰り返しの上映にあちらこちらのパートが失われて起承転結のある完全版の物語とはほど遠かった。それでも幼いわたしたちから大人まで食い入るように断片映像に見入ったものだ。
もちろんなにがしかの見物料を払ったはずだが五円だったか、十円だったか、もっと高かったか定かな記憶にない。
ともあれ、『雄呂血』はのちにわが母校となる「則松小学校」の校庭で日が暮れて上映されたと思う。小学校の周りに池や田圃があって、校庭に安直なスクリーンが張られ、金子を払った友達の家庭などは、明るいうちから茣蓙を広げて、さらに運動会の日のように重箱に馳走を詰めて持ち込んだ。
この『雄呂血』、感激とか感動とかにはほど遠く、とにかく怖かった。このチャンバラ映画の大勢の捕方と主人公が大立回りするラストは日本映画史上の名場面と、後に知ることになる。だが、幼かったわたしは、恐ろしくて姉に縋って泣き叫んだ記憶しかない。後年日本大学藝術学部映画学科に入学し、『雄呂血』を見せられたとき、
(えっ、わたしが泣き叫びながら姉と見た映画は名画なのか)
と不思議な感じがした。かくの如く『雄呂血』を見たから日藝に入学したわけではない。なんとなく入学したらわたしが泣き叫んで見た『雄呂血』が日本時代劇映画の名画として待ち受けていたのだ。
売れ行きの悪い現代ものから時代小説に転じて、なぜ読者に受け入れられたか。
幼い頃に泣き叫んだ『雄呂血』をはじめとして、先人の作った時代劇映画を食い入るように見た経験が、知らぬ間に自分の肥やしになってくれたのだと思う。
売れない時代小説家の記念すべきヒット作(?)は一九九九年に刊行した『密命 見参! 寒月霞斬り』かな。なんとなく続巻の刊行が許され、この「密命」シリーズを筆頭に「古着屋総兵衛影始末」「吉原裏同心」「鎌倉河岸捕物控」「居眠り磐音江戸双紙」「酔いどれ小籐次留書」などシリーズを次々に書き下ろす幸運に恵まれた。
とまれ、活字との出会いは、わが両親の営んでいた新聞販売店にあった。
その新聞販売店は福岡県遠賀郡折尾の町にあった。店員を熊本や鹿児島の父の知り合いから募って、二階の二間に四、五人を住まいさせていた。こう書くと大商いと勘違いされるお方もあろうが、新聞販売稼業は、
「人手稼業」
なのだ。また敗戦後、日本じゅうに戦地から生きて戻った大勢の敗残兵がいて、仕事を求めていた。そんなご時世だった。
熊本生まれの両親がどのような縁で新聞販売業に関わったかは分からない。最初一家が新聞販売業に縁を持ったのは折尾駅からふたつか三つほど西に寄った鹿児島本線海老津駅前であったそうな。
高台にあった海老津駅前から玄海灘の波津の浜に向かって細々とした道が六、七キロ余り走り、家並みとてない貧寒とした地域が両親の最初の商いの地であった。せいぜい数十部を半日かけて自転車と歩きで配って回っていたのだ。老年兵として召集されたが運よく生きて戻ってきた父の新聞配りに六、七歳のわたしが従うのが習わしだった。
最後に配達する家の前は細やかな漁港だった。父とわたしはこの家で朝餉と昼餉を兼ねた食事をまるで家族同然といった風情で馳走になり、この家の子どもたちといっしょに海で遊び、昼寝をした。帰りは父の漕ぐ自転車のハンドルにしがみ付いて駅前の店兼住まいに戻った。
そんな一家がこの界隈では大きな町の折尾に移転し、それなりに広範囲の地域を対象にした本式の新聞販売業に転じた。
その新聞販売屋はわたしの幼いころの遊び場だった東筑通(福岡県立東筑高等学校という名門高があったゆえこう呼ばれた)にあった。
近くには筑豊の炭鉱地帯から遠賀川を経て洞海湾へ注ぐ人工の運河、その名も堀川という流れが通じていた。掘ったばかりの石炭を水で洗うせいか、堀川は泥水で汚かった。
先の大戦直後、朝日、毎日、西日本、フクニチ新聞などの合同紙時代であったが、それが数年後の昭和二十四、五年ころに専売制へと移行したはずだ。
マスメディアは新聞やラジオくらいしか存在しない時代、専売制の移行に際し、
「紙の戦争」
と評されたくらい激しい販売抗争が展開された。
専売制に移行した途端、幼友達のタケ子ちゃん家は毎日新聞の専売店、うちは朝日新聞を扱うことになり、それぞれ新聞社から配られた法被を着て激しい拡張戦争を繰り広げることになる。
繰り返すが敗戦直後のことだ。ぺらりとした新聞だった。されど当時のわたしにとって活字はこの新聞以外なかった。友だちの穣一ちゃん家でもある二軒となりのS書店は東筑高校の生徒を筆頭に、この界隈の高校の教科書やノートなど販売していて新学期などはなんとも賑やかだったが、そこでも小説本や絵本などはほとんど見かけなかった。そんな店の一角に床に高校生らしい若者が大人しくも正座させられていたりした。教科書代が支払えなくて万引きしようとして捕まった生徒ではなかったか。捕まった生徒は罪咎の代償として素直に罰を受けて座っていたのだ。
そんな時代を過ごしたわたしがなぜ後年物書きになったのか。「居眠り磐音」シリーズを筆頭に時代小説を三百冊以上も執筆する作家に手を染めたか。なんとなく理解できるようであり、また未だ得心できない自分がいるのも確かだ。
本作品「変化」を新たに光文社文庫から刊行するために久し振りに読んだ。それで思い出した。「変化」に始まるシリーズを書き始める前、主人公の故郷と仮に設定していた伊那に取材に行った。その折り、偶さか「座光寺」家で弔いが催されていた。はい、籐之助の末裔(?)の弔いの日に取材に伺ったのだ。いえ、弔いの一家の姓「座光寺」に惚れて、即座に新作の主人公の姓に決めたのだ。このようなケースは滅多にない、初めてのことだ。なにか縁を感じたのだろう。
かように年齢八十三歳のわたしの人生は常に思い付きであり、慎重に思案した末に選んだことはない。これが「新聞屋の泰ちゃん」が選んだ思い付き人生ならば最後まで全うするしかあるまい、と思う。